昭和44年12月25日 朝の御理解


 御理解第41節「信心は話が聞くだけが脳ではない。わが心からも練り出すがよい」

 此の方の道は話を聞いて助かる道と教えておられます。話を聞くという事はやはり、話を聞いて考えさせられる。それが、体験を交えての話であったりいたしますといよいよ考えさせられる。いわゆる空論ではない。それに体験の裏づけがある。お話などは聞いておって考えさせられますね。そういう意味で、金光教の信心はもう、始めから練り出す事が求められておるですね。話を聞いただけで助かるというのはそこに話を聞けば、成程そうだなあと言う風に考えさせられるのです。ね。ですからその話がです私は考えさせられる、やはりその道理にあった話。ね。成程、道理だと聞いておって合点がいく。
 またはその話に、その、体験が一緒に語られますとです、その話は例えば難しかってもやはり考えさせられます。そこから、私は練り出す、練り出すと言うことになる。だからお道の信心で話を聞いて助かる話を聞いてそれを練り出すから実は助かるのであり、おかげが受けられるのです。
 ですから、練り出すと言う事はもう即おかげを練り出すということにも通じるのです。おかげが練り出される。ここでは皆さん、昨夜も北野地区の今年最後の共励会でございましたから、まあよい共励が出来たであろうと思うのですけれども、そういう共励会なんかに望んでからのそういう場で、多いにやはり、練ることが大事です。皆さん遅く帰ってみえましてから、私あの、コタツの方で待っておりましたから、あそこで、それこそ、コタツは火が消えて、もう、寒うなりましたけれども、それこそ冷えついでにまあ、色々信心話を聞かせて頂いてまあ、練らせて頂いたのですけれどもね。
 丁度甘木の安武先生の沢山教歌を作っておられますよね。教えの歌を。それが31集、カレンダーになってできておると。それを昨日、頂きましてからそれを見せて頂きながら、また、高橋正雄という教団きっての教学の大家でもあり、非常にお徳の高い先生でしたが、高橋正雄先生が日々、御自分の祈りの内容というものをひらがなでひらがなばっかりで綴っておられるその、「祈り」というそれを、昨日、愛子さんが御本部から頂いて帰って来ておりましたから、それを見せて頂いてまあ色々話したわけでございますよね。
 安武先生の教話、教歌というのは、読ませて頂いておると成程有り難いですけれども、安武先生の御信心というのはこの、歌に現れておるくらいなものじゃなかったという事ですね。もっともっと深い物があったという事です。ですからあのお歌を作られたら恐らく、このようにしてから、発表されたんだろうと思うのですね。ですからその歌の持つ内容を御理解下さったのだろうとこう思うのです。
 ですから本当にその御理解に触れて初めてその歌の深さが分るのであって、別に先生が歌人であるわけでもなからなければ、特別歌をお作りになる才能がおありになったとも思われません。まあ、(  ?  )おかしな歌です。まあいうならば。ですから、安武先生の御信心というものはこんな物じゃなかった。もっともっと深い素晴らしい物であった。その証拠にはあれだけのごひれいを甘木の地に現しておられますからね。高橋正雄先生のはおうあまりにも何というですから、哲学的ですから、実に深くて読んでおって、字はひらがなばっかりですから、誰でも読めますけれども、分らないことばっかりでありますね。それで、段々何回も読んでおりますうちにははあ、と思うて分からせて頂くわけでございますけれども、この、例えばどのように難しい例えば、解読しかねる、難しい文章であっても、それを、50ページ100ページと読んでいっておっておるうちにはです、その、意味が自ずと体得されると言われております。
 ですからね、私共がやはりそれを繰り返し繰り返し私共練らせて頂くことにしなければならん。頂いた、どうしても合楽の御理解はまあ、私としては、噛んでふくめるように、まあ日々御理解しておるつもりである。ところが頂く者の側にしては実は分っていない人が多いのじゃないだろうかと。例えばその証拠には、ちょっとなら、こちらが質問出してみると分っていない。または、はあ、今日の御理解有り難かったというけん、どう有り難かったですかというと、まあ、私から言うなら枝葉のところが有り難かったと思うたりしておる。いわば今日の御理解の、神髄とでもいうもの。どこを分らせようとしての、あの、御理解であるかという事をもう一遍、もう一遍練らせて頂かなければ本当のことは分からんと。私は噛んでふくめるように説いてあるつもりであるし、見やすくといてあるけれども、説いてあるその内容というものは大変高度なもの、難しい物。難しい事を平易に説いてあるのですから、難しい。だからこれはもう、とに角やはり、お互いがもう少し勉強しな、いわば練らなければならない。
 昨日、愛子さん帰ってから、こちらの御理解、御理解集の中から、1日分をここで、青年会の主だったというか有志の人達だけで御理解研究会というのを毎月開いておる。その御理解研究のまあ、結果と言ったようなものをガリ版刷りにしておったものを、愛子さんに送った。御本部へ。なら皆、見せてくれ見せてくれというから、見せてやった中に、四、五人はです、それをもう熱心にその、研究する。やはり何というか合楽の御ひれいというものを皆さんが聞いたり見たりして知っておりますから、あのごひれいがどこにその元があるのかと。
 ね。それにはやはり、その元を訪ねなければならん。たまたまその御理解を送ってもらったからその御理解をまあより良いものにまあ五、六人の人達が一生懸命その、ここで説いてあるんです。噛んでふくめて説いてあるのを、また、ああでもなかろうかこうでもなかろうか練っていきよる。だから今度帰ったら是非そのあちらのテープをこのテープに移してきてくれというてテープを持ってきとるというておりました。ね。ですからまあ合楽の御理解、1日なら1日の御理解をですね、もう、何人がかりで何日間の練ってそれに値するものだと私は実は思うのです。通り一遍聞いてですね、私その、練り出す事は出来ないて。ね。
 御理解を受けますね。頂きます。余りに噛んでふくめるようにまあいわば説いてあるから、難しいことでも見易いように思える。ね。それで、実際にそれに取り組んでみると難しい。ね。けれどもそこんところがです私は合楽の人達はある意味でこの、考えさせられるという事が欠けておるのではないかと思います。今日の御理解はここんところはどういう風に頂かれたかと。ね。ですからその、御理解を頂くということでもその御理解を頂く姿勢がただ、御理解を頂くではなくて、やはり、いつも自分の心の中に、求めぬいておるものがなからなければならん。ですからあの、その、御理解がはあ、これだここだったといった風にです、翻然として分らせて頂くことにもなってくるだろうと思うのですよね。 これがですねただ、信心をしておるとかただ話を聞いておるだけとかと、考えさせられるその力というものがですね、無くなりますと、大変これは危険な状態ですかね、危険な状態と言うとおかしいですけれども、危険な状態と言うことになるでしょうかね。
 そこんところを一つおかげを頂いていかないと。昨日は、いつものことですけれども、その自然との対決というか、そこに本当に何時も厳しいものを感じるのですけれども、昨日の朝控えに、御祈念前に出らせて頂きましたら、昨日の朝、花が変わっておる。その花が何と、その、まあ、(  ?   )である。山茶花が生けてありましたが、山茶花のいわゆる新芽を摘んでしまって、生けてある。もう花としても全然味わい何もない、花と同時にそれを見て何かぞっとするものを感じた。
 何かに、何か今日はまた言うてくるかもしれんと。そしたら、案の定です、私の母の妹にありますという人が長い間、病院に行っておりましたが、亡くなったという通知がきた。もう、私のおばさんにあたります、(?)からあの、母の兄弟は二人きりですからね、それに、若い時から非常に信心深かった。そして若い時から非常に不幸せだった。第一回の結婚にまあ失敗をして、子供1人おって離縁になりそれから、久留米の方へまた縁ずいて、そこでも本当に大変な苦労を致しております。そういう事がいよいよ信心を求めたわけでしょうね。いわゆる段々熱心に信心をして成田の不動さんを拝みました。
 それで一生懸命その、信心をして行くうちにですね、いわゆる、( ? )が出来るようになった、いわゆる仏様から色々お知らせを頂くようになった。大変お参りを多くてですね難儀な氏子のまあ、為に、修行をしたわけでございますがね、それでまあこれはまあその特に霊能者と申しますかね、特に神様のお知らせを頂いたり仏様のお知らせを頂いたりするのをまあ霊能者とこう申しますね。そういうその、霊能者の人達が非常に危険なことをですね、その仏様が神様が、どんどんお知らせを下さる。そのお知らせを下さることをこなしきらん。ね。そこにです、信心に危険があるのです。信心の危険が。
 いわゆる信心ののぼせというかですかね、信心きちがいち言う、と申します。言うならば、何と言うでしょうかね、人間と神様の板ばさみになって苦しむのだそうです。それが持って行き所の無くなって来る。そういう状態だったんですよね。まあもう、(?)と言いよりましたけれども、聞かせて頂きましたら、宗教関係、宗教のことでまぬかれるのは出来るんらしいですね、戸籍のほうも変わって、(?)名前に変わっておる。ね。
 ですから、その、私は本当に一生が不幸せな人だったなあと、思いますけれどもその、不幸せであったという事が、信心を求めてそれから信心が熱心に熱烈になって、いわば神様仏様から色々とお知らせを頂いたりするほどしのおかげを頂いた。ところが段々それが高じて神様といわば人間とのあい中に入って苦しみ出した。同時に沢山の人が助かる事の為にはその人の難儀というものを身一つにこちらへ、引き受けなければならない。分りやすくいうと。これは私共にでもそれがありますよ。皆さんのいうなら難儀を私が引きうけてそして神様に願うという。そこんところが私が道によって処理していくわけですね。教えがあるから有り難い。道によってそれを処理していけれるのですけれども、私のおばさんの場合は、その道というのがない。教えというものがない。ね。そして、それを練りだそうともしなかった。ね。盛んに日柄方位とかそういう事を言ってました。
 お道の信心でいや、その事のためにでもやはり難儀から開放される事が出来んだろうと思われるでしたけれどもです、私はその事を昨日、神様にお国替えのおかげを頂いたというお知らせを受けてお届けをさせて頂いておりましたら、いわゆる人間の世界と仏様の世界との合い中でいわば中は中挟みになって苦しんどる。だから一生を人の助かることのために難儀を背負い続けて亡くなった。ですから、あの世この世を境にしてです、あの世では神様に特待、特別のいわば御もてなしの頂けれるおかげを頂けれるという意味の事を頂いた。ね。
 それがですね、例えばその、練り出す事を与えない、練り出すことをしない、だからそういう信心は非常に危険だと言うことが分ります。それがね、うすらばっとした信心ならいいけれども、うち込んで信心させて頂きますと必ずいわゆる、なんというですかね、不思議な世界とでも申しましょうか、私共もやっぱそういう事があった。これはまあ余談ですけれども、断食をいたしましたりね、お滝の水を頂いたり、そして自分を空しくする、それを肉体の上にその、厳しく修行をしてまいりますと誰でもね、そういう状態が出来てくるのです。これは決してあのお徳というものではないです。力というものでも無いです。誰しもそういう状態になれば受けられる。
 ね。まああの分りやすくいうと昔、双葉山という相撲がおりましたね、双葉山とか(?)なんかが、熱中したというその、(?)問題の事件がありましたよね。( ? )自分で(?)という名をつけて、自分は天照御稲荷様の生まれ変わりだと、非常に人が助かったんですね。
 だから当時のその、有名人もそれに迷ったわけですけれど、やっぱりその一生懸命信心してお前は神様が仏様のあれが、お前は天照大御神の生まれ変わりだと仰ったから、それを本当に受けてしまったのです。ね。どこどこの不動だというて掛かってきたら、もう自分は何々様の不動様がかかってきてござるとこう思うわけですよね。
 それもそういう風に受けていくから、一つのまあ人間の世界ではない、その霊の世界のまあ一つの霊物が掛かってくるのですから、まあちょっと人間の知恵では分らないことや、人間では分らない事をやはり教えたりするような場合もあるわけです。そこんところだけを見たり聞いたりしてから、ははあ、あの仏様は仰る。はあ、あそこはというてその簡単な病気くらい治すような働きはありますと、いわゆる発光してしゃっしゃる。あちらは大変発光しなさると言うことになってくる。
 ですからね、そういう時にその受けるその処理していけれる、ね、いわゆる、道とか教えというものがあると間違いのない事になってくるのですけれどもね、、私のおばなんかもごたぶんにもれずにそこんところの処理が出来なかったわけです。いわゆる練り出すという事が出来なかった。もう、成田の不動産なら成田の不動産がいいござる、教えござるとこう思い込んでしまうわけ。ね。それで、お不動様が右といいなさる、子供達やら、主人やら、普通の人間やらは左と言う。そういうもう、そこんところに一致点(パン、手を叩かれる)が出てきてないわけなんです。その点、金光様の御信心はやはり、道理に合うた信心といわれておるようにです、道理に合うていく信心を身に付けさせて頂く。だからいわゆる危険性がないというわけである。まあ、それは亡くなってあの世で極楽に行けばそれでいいでしょうけれども、私はまずこの世でもね極楽に行けれる道が金光様の御信心だと思うのですよ。もちろん心でここで極楽の境地をいわば極楽の境地というのはありがたいという境地ですよね。ありがたいという境地を開かせて頂いてそのままあの世にも持っていこうというのが金光様の御信心です。しかもそれをこの世にも残していこうというのが金光様の御信心です。
 けれども果たして金光様の御信心を頂いておるものが、皆有り難いものをあの世に持っていったかこの世にも残していったかというと疑問です。その証拠にはいわば後が助かっていない。ね。それはどういう事に原因しておったかというとです、私は練り出す事をようしなかったからだと思います。ね。話はその聞いておる。いわゆるお説教だけはそりゃ聞いた。そん時に、聞いて、まあ、有り難いとか面白いとか言うて聞いておるけれども、それを練りだそうとも一つもしていなかった。そこに例えば耳だけが肥えて、心は一つも肥えていないという事になる。何かというとそれを行の上に現さないからですね。家業の行に。だから金光様の御信心は本気でです話を聞かなければならんと同時に、聞いただけではいかん、考えさせられる私はおかげを頂かなければいけない。今日の御理解は考えさせられる。ね。だからなら、考えさせられるだけではいかんから、ね、考えさせられたその答えというものが出てこなければいけん。それが、私は練り出すんだと分らんならば共励し合うて、そこを分っていくのだと。分ったら分ったことを生活の上に現していくのだと。そこに本当のいわば、良い信心ということになってくる。
 今日私はね、この四十一節の御理解の一番最後のところが「よい」という事になっているでしょう。「練り出すがよい」というところが、「よい」ということになっておる。ね、教典にはそこが出ておるでしょう。ここんところだけを実は頂いたのですよ。
 そして次には四十一節というところを頂いたのですよ。ね。四十一節、今日は四十一節を頂いておりますけれども、実をいうと、この「よい」ということ、又は四十一節はこれを読み方をかえると良いと言うことになるでしょう。四十一ですから良いです。ね。だからそれはどういう事かというと「良い信心」と私は思うた。ね。良い信心。あちらは良い信心をされるとこういう。なら金光様の御信心が良い信心だといちおう頂いてですたい、金光様の御信心の中でも、なら申します、あちらは良い信心をされるという、良い信心をせないかんのです。まあ、その良い信心をしておる人達はどういう人達かというとですね、必ず、練り出しておる人達です。何時も共励会に行く事などを楽しみにしておる人達です。そしてより本当の事が分かる事の楽しみにしておる人達です。
 そしてそれを行の上に表しておる人達です。そういう人達を私は良い信心、あちらは良い信心をしなさると言うこと。ね。だから良い信心をさせて頂くという事は一生懸命お参りが出来ておるという事でも無からなければ、よう人の出来んような、お供えでもされるという事では決してない。話を聞いて、熱心に話を聞いてその話を練り出して行く人。
行の上に現して行く人。そういう人が良いと言うことになる。良い信心という事になる。果たして私達がよい信心を致しておりますかどうか。
 こうして朝のご祈念にお参りをする方達はやはりここでは御理解を頂かれることを、いうならば楽しみにこうしてお参りしておられる思うのですよ。勉強しておられますから。ですから通り一変に聞いたら書いたりするのではなくて、それが一つの練り出されるところのおかげ、いわゆる家庭でそれが練り出される、練られる。夫婦で親子で、ね、そして、共励会で練られる。分らんところはもう一遍お伺いをしてそこんところを自分のものにしてそういう信心をいわゆる、四十一節、四十一節にを頂いて、良いとか良いというひらがで書いた良いをここで頂きましたがです、そういう信心をもって良い信心だと言うことになる。そんなら、必ず良いおかげが練り出されてくる。良いおかげが生まれてくる。もう、それこそ、危険もなからなければ、いうなら、何というですかね、その代りにその、(?)にとでも申しましょうかねお芝居で使います、言葉に、その(?)もない。しかしその(?)だけを信心の楽しみのようにしておる人があります。これは危険です。例えば断食やらね、水行やらする事だけに、異様にその、魅力を感じる。そういう事だけに。
 教えをそしてその(?)触れますもんね。ああいう修行をしておりますと。信心の(?)に触れる。それが楽しいという人がある。ここにもそういう人達がやっぱあります。そして話を聞かない。行ないの上には現さない。
 ね。だから金光様の御信心といえば実に平凡といえば平凡、良い信心というのは、話を聞いて、ね、それを練って行く。ね、それを行の上に表していく。そういう信心こそが良い信心である。四十一は良い。良い信心である。ね。そこから一つ、良いおかげを頂いてもらいたい。そこから良い信者にならせて頂きたい。
 夕べも青年会の方ばかりでしたから若先生を始め、合楽でもずっとこうですね。あれだけ毎日参ってきよってどうして共励会に出てこんじゃろうか、しかも、もう、共励会に出てこんどころじゃなか、もう、いう事だけは(  ?  )検討外れた事ばかり言うてから、結局共励しよらん証拠。先生の話を何と頂きよるじゃろうか。ね。熱心であるけれども良い信心じゃない。という話が出たのですけれども、ね。だから熱心であると同時に、良い信心をしなければいけません。その良い信心をしなければ、私は良いおかげになってこないと思うのです。ね。
 私は夕べも合楽にまあ、それこそ、まあ四十七人なら四十七史じゃないけれども、四十七人くらい良い信心をしておる人達があろうから、一つ、「銘々伝」を一つ作っても良いころではなかろうかなと、その人その人一人にです、あの、その信心の個性がある。ね。けれどもならその一人一人合楽で四十七人を選び抜いてから、一人一人の信心をまた検討し出すとです、もう、私の信心をどこまで頂いておらんにしてもです、私の信心をどれほどいわば説明しきる人があるだろうかと。
 親先生の信心はと例えば問われた時にです、もっというなら金光様の御信心とはと例えば問われた時にです、本当にこうして、毎日信心の稽古をさせて頂いて、親先生の信心に接しておるけれども、親先生の信心とはと問われた時に親先生の信心を本当に解明出来る、それに説明の出来れる信者が何人おるだろうか。してみるとまだ銘々どころではないなというてから話したところですけれどもね。
 もう一つお互いがですね、本気で共励し合う。それはもう、家庭でも、また、色々な共励の場においてでも、共励でもしなきゃいけません。練り出さなければいけません。そしてその練り出していくことの楽しみがです、その、おかげの楽しみに繋がる事です。今日は良い信心。この、四十一節から、御互いが銘々一つ良い信心を頂こう、よい信心とはといようなことを申しましたですね。
                                    どうぞ

                                  松本正宏